読む読まない読めないのこと


なにをかというと空気をです。

わたしはここまで結構空気を読んで生きてきたな〜と思う。頭は良くないし教養もないので読んだ空気が合ってないこともしばしばで、特にイケてる同世代の空気は全然読めてないことが多い気がするけど、立場が上のなにかとか強いなにかの空気は読んで、迎合して、流れに乗って生きてきたように思う。まあ要は気に入られるようにというか。
最近は読みすぎずぶっ込んでいくスタイルも取れるようになってきたが、それにはそれなりの体力が必要で、まだまだ努力が必要。とにかく会議中に何も言わずにあとからぶーたれる人にはならないようにしたい、でも会議中には思い付かなかったりするのよね。脳内の準備と瞬発力が問われるわけですね。

 

というようなことを考えたのは、先日TOUTEN BOOKSTOREで行われた『違国日記』の読書会がきっかけで。
主人公の高校生・朝は、素直ゆえにずけずけと粒度の粗い発言をする。もう一人の主人公・槙生は、その発言を流さずにひとつひとつ拾って返す。朝この感じはいいところでもあるのだけどイラッともするよね、槙生さんは偉いけど生きづらそうだよね、というような話を会に参加したみんなでした。二人とも、お互い空気を読まないのだ。
空気なんて読まなくていいよと、物語の中の人やSNSの中の誰かに対しては思うのだけど、現実の世界ではなかなかまだそうなっていない。一人の方が「大きい会社では空気を読むことが強く求められて、とてもつらかった」と話していて、我が身を振り返ったのだった。

空気を読む気のある人たちばかりで構成された空間では、空気を読み合うのが「甘え」の発生源であるように思う。
これは優しい漫画だよねと感想を言う人もいたけど、私にとっては全然優しくない、結構厳しい漫画なのだ。なぜなら「甘え」がほとんどないから。朝はいろいろな場面で苦しむが、槙生はそれを甘やかさない。適当な言葉で誤魔化さない。
「あなたとわたしが別の人間だから/あなたがわたしの息苦しさを理解しないのと同じようにわたしもあなたのさみしさは理解できない」という一節。
泣いても「わかるよ」とは言わない。むしろ「わからないよ」と言う。甘やかさない。でも、側にいる、二人の関係。


わたしは自分にも他人にも甘くいたい。ラクしたい。甘やかされたいし甘やかしたい。でもそれには限度があると、この数年でやっとわかってきた。自分と人は違う生き物でお互いに理解なんて出来ないし、人と付き合うのにラクなんてできないという前提をやっとやっと受け入れつつある。空気なんて読んでる場合じゃない。だって言わないとわからない。
でもでも、お互いに空気を読み合ってダラダラしたいなあ。言わないでもわかってほしい。ツーカーの関係、山と言えば川、阿吽の呼吸が気持ち良い。そうでない現実世界でちゃんと生きるのは大変だ。

 

憧れのキャラクターは森本千世さんだけど、一番共感できるキャラクターはえみりのお母さんの楢美知子さんかもしれないなと読み直して思う。子どもいないけど…