価値のこと


ごまさんが名古屋と多治見に遊びにいらっしゃるというので、連休にして一緒に2日間遊んだ。

旅程は、コンパル本店でランチして、東山動植物園でコアラとレッサーパンダを見て、On Readingに行って展示と本を楽しんで、コアラドでワインを飲んで、最後にもう一軒で初日終わり。
2日目は金山のブラジルコーヒーでモーニングして、TOUTEN BOOKSTOREでまた本買ってから、多治見にお出かけ。メインの目的地は新町ビルでの陶器の展示。信濃屋、梅園、ヒラクビル、CAFE NEU!も行って大満足だった。
f:id:l11alcilco:20211212195645j:image

で、その間わたしの頭の中にずっと巡っていたのは、価値のことであった。
もしくは金のこと。
東山動植物園の入場料は500円である。
On Readingで買ったリトルプレスは1000円である。
信濃屋のうどんは660円。
買うか買うまいか迷った陶器のマグカップは2800円。
何にどんな値段を払うのかは、とても個人的なことだと思う*1。一方で、何にどんな値段をつけるかは、とても社会的なことではないか。「これくらいでどうでしょうか」と出す裏側に、いろいろな事情が、いろいろな人の取り分が積み重なっている。

わたしは普段マクドナルドを食べてトップバリュを買い、無印良品に囲まれユニクロを着て生きている。仕事でも、なるべく多くの人にお金を払ってもらうことを目指して、個人というよりも市場の中で最適化されたものを仕入れるのが常だ。
大量生産大量消費でいいのかなと思うのだが、それ以外のやり方がいつのまにかわからなくなってしまった。一人暮らしですぐに食うに困るわけでもないけど、何かあったらすぐに食うに困るんじゃないかと怯えているからなのかもしれない。

この2日間は、作る人から販売するモノまでの距離が近いところに行った。するとこの普段の生活とのギャップがこたえる。
作家さんが窯から出してきたばかりの花瓶を眺めながら起こる、わたしがこれを買う理由はなんだろうという思い。すてきだな、いいな、という気持ちの根拠がわからなくて苦しい。*2
それと同時に発生する、じゃぁ自分の勤め先が売っているものは納得できる価値があるのかという不安。
消費にも提供にもなんだか自信がないな…と思いながら、衝動買いしたセーターは25000円した。内心わーあ、となりながらスッと支払った。

 

 

 

*1:意思表示、投票という意味では社会的な行為だとも思うんだけど、それを決意するのは結局個人でしょう。

*2:ほんとうはこのブログで、この「すてきだな」の根拠がわからないことについて書きたかったのだけど、できませんでした。