8月はブログをたくさん書いて投稿しよう、というムーブメント「Blaugust」に乗って楽しく書いていたのだが、最後の最後で尻切れトンボになってしまった。日々の日記も中途半端になっているし、8月のうちに投稿するつもりだった別な記事も書き途中で止まっている。
この関連で読んだ夜学舎さんのブログ *1 で、
これまで、自分にとってインターネットは息抜きだ ったり遊びとか余白を持った場だと思ってきたけど、実はこっちが公共的な顔で、ネットに載せない部分がプライベートなのでは? という感覚になってきました。
と書いてあり、共感した。
表に出す日記とかTwitterの投稿とかが、つい数年前まではと壺の中に向かって叫ぶ「王様の耳はロバの耳」のような、ごく私的な、プライベートなものだったのだが、いつのまにかこれが公共的なものになり、なんならマーケティング的なものになり(これは文学フリマとかそういう界隈に足を踏み入れたことと関連していると思うが)、素朴に見たテレビの感想もろくに呟けないような状況になっている。なっている、というか、自分がそういう考えに囚われている。以前のブログ*2 にも書いたけど、なんかカッコつけたり面白かったりオシャレだったりしなきゃいけないという妙な強迫観念がある。出していいものと出してはいけないものをソートした結果、出していいと判断したのものをインターネットに書くような精神的障壁を感じる(ただしその精度は高くないが)。わたしにとってのインターネットは家庭とも勤め先とも関係のないサードプレイス的なところがあって、そこでこそのびのびと過ごしたいと思うがゆえに、好き勝手なことを喋り、喜んだり嘆いたり俺通信を投稿したり、ときには歌を歌ったり踊ったりしていたいわけなのだが、どこかのタイミングから見られている(たいして見られていないのに)とか、嫌われたくない、いい奴だと思われたい、"こう"見られたい(ただしそれが"どう"なのか本人もわかってない)みたいな感情が先行するようになった。話し相手によって話すトピックを変えるのは大人として当たり前のことではり、人はこれをもしかすると分別がついたとかいうのかもしれないが、それがかなしい。大人は現実空間でもオンラインでもわめき散らすことはゆるされないのだろうか。ゆるされないんだろうな。ゆるされないのかよ。という思いで人里*3離れたBlueskyやmixi2でたまに器から溢れたわめきを書き散らかしている。醉うとこの辺のことがどうでもよくなって気分のまま投稿することが増える。たとえばこちらのツイートなど。
こん平 pic.twitter.com/RsyF9Y4TEd
— むま (@l11a) 2026年9月4日
こん平。
先日、午前中友人に会う→午後別な友人に会う→夜また別な友人に会う、というリアル濃度のギュンギュンに高い1日があったのだが、公私でいくとその日はよっぽど私であった。サブアカウントで喋っているような心地があった。こちらのほうが現実で主であるはずなのに、Twitterのアカウントのほうが主であり公であるというおかしな感覚。現実の休日がプライベートなものであったというごく当たり前の話なのだが、まるでそれが貴重なことのように感じるのが変だ。現実がどこにあるのかわからない。いや、全部が現実なのだが、実態がなにであるのかわからない。いや、実態などないのか、全部実態なのか。自分が実際に過ごしている時間、滞留している空間以外に現実はないはずなのに、TwitterのタイムラインやLINEのコミュニケーションの中にそれぞれまた別な現実があるように思う。拡張しているのか?ただ実際の現実への集中力を欠いているのか?たぶん後者っぽい。だとしたらわたしはもっと現実をちゃんとやるべきなのか。たぶんそう。
たぶんそうだな。







