関係あること


もしくは墓のこと、かもしれない。

どこまでが「自分に関係がある」ことなのか、それはどうやって決めるべきなのか、という思い(悩みでもなく、考えでもなく)が生まれている。
それが墓に絡んでいる。
そしてこれはブログを読む人にはなんにも関係のない話だ。まぁでもブログを読みたい人は大概、自分に関係のないひとの関係のない出来事や思いを読みたがっているという前提があると思うのでいいことにする。

 

少し前にわたしの父が他界して、その半月後に伯父(父の兄)が他界した、という出来事があった。
父の死はほぼ突然、という感じだったのだが、伯父は割と長く患っていたため葬儀には来られず、ただ伯母と従姉妹が参列してくださった。
一方、伯父の葬儀には我が家は誰も参列しなかった。そもそも忌が明けるまで、お知らせがなかった。知らなかったから行けなかった。
身内の死に対しての取組み方が二つの家族で違ったのだった。

これに戸惑うのは我が母である。
「たった一人の兄弟なのに、知らされないなんて」という。
実際には"たった一人の兄弟"である父本人は存命ではないから、知らされなかったのではないかと私は思った。つまり兄本人には関係があるけど、兄の嫁であるうちの母には関係がない、という線引きがもしかしたらあったのかもしれないと。
まあ、ほかにも考える方向性はあり、伯母は疲れて誰にも会いたくなかったのかもとか、単純に我が家は嫌われているのかもとか、なんか他の事情とか、いろいろあるだろう。
そもそもこの15年ほど、ほとんど没交渉だった兄弟であり、その家族同士なのだから、互いに同じ温度を保つのは難しい。
私からすると、伯父には優しくしてもらった思い出もあり、なにしろ父の兄なわけであり、たしかに関係のある人で、弔う気持ちがあるのだけど、たとえば訃報のあったとき遠方に住んでいたら咄嗟に駆けつけるか?という問いにはなんとも答えられない。そうなると、その家族がどんなふうに葬儀をしようと、誰に連絡しようとしなかろうと、関係ないとも言える。
しかしそれを断言しづらいのは、この「関係ない」という態度が、「関係ある」人である自分の母を困らせているからだ。
関係ないと捨て去りたいことも、関係ある人が「わたしには関係あることなのだ」と主張したとき、それは自分の関係ごとになる。家族というのは割とそういうシーンが多いような気がする。


さて、人が死んだら大概墓に入るのだけど、父は生前に特に用意もしていなかったので入る先がない。四十九日を過ぎても骨はまだ家に置いてある。
墓は土地をゲットするところから始まる*1し、高いし、死後のあれこれの中でも断トツのなんだこれ感あふれる事柄なのだけど、『昨日何食べた?』のシロさんの両親のようにマンションのような感じで入れるものもあり、我が家は現状そういった空間を検討している。そうすると今度は間取りを選ぶように"いくつ骨壷を入れられるようにするか"を検討することになる。*2
わたしが「2つ入ればいいよね?父と母の分で。」と言うと、母は「えー、でもお兄さん(自分の息子のこと)とお嫁さんは私達は同じところに入るんじゃない?あとあなたは?」と言う。
それは、母には関係ないのではないかと思う。
私は独身で子どももいないので、死んでも墓はなくてもいい気がしている。それは母に関係ないというか、私が先に死なない限りは母が関与しないことだ。でも今の彼女には関係ある。
さらに祖父母の墓はどうするか、その親の墓もまだあるが、どうするか。こうなってくると私としてはもはや関係ない気がしてくるのだが、やはり母は関係ある。お盆、お彼岸が関係ある。

どこまでの事柄に真摯に取り組み、どこからを関係ないとしてよいのだろうか?と思う。地球環境とか日本の将来とかみたいなデカい話も同じなのだが、兄弟のこと、親のこと、親戚のこと、友人のこと、すべて「わたしには関係ない」としてしまおうと思えばできる。しかしそれでいいのかなと墓参り帰りの車の助手席で思うのだ。


寝る直前になって花粉症の薬を飲んでいなかったことに気がついて、隣室で寝ようとしている母に「花粉症の薬飲んだ?」とドア越しに声をかけながら、いま私が一番関係している人はこの人だなと思う。
近くにいることは一番カンタンに関係あれる手段ということだな。


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*1:公の墓地だと土地の抽選もあるらしい

*2:もちろん入れる骨壷の数で値段が変わる。あと、敷地内の場所とか、縦の何段目かとかでも変わる。