やっと休みの日に起き上がって活動できた。あらゆるところを掃除し、あらゆるものを畳み、やっとヒーターをしまい、それに伴い室内の配線を見直した。すっきり。
そして、ご飯を炊いた。
白いご飯は社食で食べられるので、家ではなんとなく体に良さそうな玄米を炊いてみている。なおかつ、炊き込みご飯にする。朝これを食べるだけで朝食を完結したいためだ。炭水化物にたんぱく質やら食物繊維やらを少しでも入れ込んで、1日の栄養の帳尻合わせに関与させる狙い(たぶん殆ど影響してない)がある。卵焼いたりとかしていられないのだ、とにかく起きられないから。
で、玄米で炊き込みご飯をこしらえるにあたって私がいま熱烈に支持しているのがこちらの方法。
まずお水でバーッと炊いて、それから出汁やら具を入れて炊くという2段階方式。これが驚きのちょうどよさなのだ。もし炊飯器を持っていなくて玄米で炊き込みご飯を作りたいと思っている人がいたら(ニッチ)、お試しいただきたい。
で、今日はひじきご飯になりました。
おいしい。
ひじき煮はスーパーのお惣菜コーナーで買ったやつです。かつてはたまにひじきを煮てたけど、最近全然やってない。おかずの作り置きに興味がなくなって久しい。
手を洗いながら、この感じ、なんか今日、生活…ぽいな…と頭の中を星野源の顔がよぎる。
生活という言葉、持て囃されすぎていないか、とちょっと思う(星野源は悪くない)。
半月前までは生活しかなかった。そこで、生活だけだと人は苦しい…主語が大きすぎたので訂正して、私は苦しいということがわかった。
もちろん掃除してきれいになったら気持ちいいし、作ったご飯が美味しければ嬉しいのだけど、それだけでは息が詰まる。なにかエンターテイメントが必要だ。
ひとつは誰かが楽しませてくれるもの。テレビでも、ラジオでも、映画演劇音楽、外食、その他諸々。
もうひとつは、自分が行動することで自分を楽しませるもの。専業主婦/夫や仕事を引退した人たちが、趣味のサークルに行ったり、ボランティア活動をしたりするのはこちらのチームではないかと思う。エンターテイメントの要素が、そういう活動の中にあって、それはたぶん仕事の中にもあるんだろうな。それは自分が社会の一員として認められていますよ、と確認することと同じなのかもしれない。
生活もなく、エンターテイメントもない状態、たとえば病気をしているときを想像すると、本当につらいだろうなと思う。ここでまたよぎる星野源の顔。健康大切だ。
健康のためにも生活がんばらないとな…。
昼過ぎに外出。
スガキヤで冷やしラーメン490円を食べた。普通のラーメンは330円で驚きの安さだ(そして美味しいと思う)が、いろいろ具が乗ったり冷たくなったりしているのに490円はますます安い。
スープはいつもの豚骨風ではなく、酢醤油ぽい、あっさりしたもの。愛知県民は冷やし中華にマヨネーズをかけるのが一般的らしいので、何も言わずともマヨネーズがついてきた。ニヤニヤ。いざ、麺と具を混ぜようとして箸を差したら、ガチン!と固いものに当たったので驚いた。よく見たら、麺の下に四角い氷がゴロッと正方形に並んでいる。お陰ですごく冷たいし、盛付けの山型の土台だったのだなと気付いてますますニヤニヤ。生のカットレモンがうれしい。
サラサラっと美味しかったし、スガキヤの冷やし中華を初めて食べて、味わってない名古屋のものってまだまだたくさんあるな、と思い出せて楽しかった。スタバ行ってる場合じゃない。
もろもろの用事を済ませて、喫茶店に寄った。外見の素敵なお店で、一度入ってみたかったのだ。しかも「お喋り禁止」の表示。コロナウイルスとか関係なく、もともとそういうコンセプトのようだ。
入ると、私しかお客がいなかった。安心して黙ってお茶を飲む。もう一人来店したが、黙っている。店員さんも必要最低限しか発声しないので面白い。もっとBGMの音が小さくてもいいのになぁと思いつつ、ぼーっとしていると、二人連れのお客さんが入って来た。
「どうなんだ…?喋るのか喋らないのか…?」と思っていると、二人は小声でポソポソ喋っている。特に店員さんから声を掛ける等もない。「なーんだ、厳格なルールというわけじゃないのか」となぜか憤慨した。
よくよく考えると、静かなところで一人でお茶を飲むのは、わたしは自室でいくらでもできるのだった。むしろ外食するときは他の人が話しているのを(悪趣味だけど)聞いて楽しんだり、店員さんがワイワイお仕事しているのを眺めて楽しんだりしている気がする。そういう部分が私にとって外食の目的の一部でもあるのだなぁとしみじみし、「あんまりお呼びでなかったなぁ」と先ほどの憤慨を反省していると、社用の携帯電話が大音で鳴り響いた。慌てて切る。空間に対して「すみませんっ」と声に出して謝り、残っていたお茶を飲んですぐに店を出た。
なにこのオチ。
ふにゃふにゃとスーパーに寄って帰宅した。