『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を読み終わった。後半になるほどファンタジックというかメタファー的というか、になっていった。面白かった。『コンビニ人間』を読んだときのような、ああこれが今の文学なんだろうな、知っている景色の中にある、いままでに見せつけられたことのない視点と感情、その表現…などと、文学なんてなんにも知らないけど、思った。何度も繰り返されるのは、「あなたにも生きづらさがあるよね?わたしにはある」という問いかけ。みずみずしさを失うと、生きづらさを忘れてしまうのだなという気付きが、昨日も書いたが個人的に感じた切ないものであった。
これがおばさんになるということか。
おばさん化しているせいか、今日は働いているあいだじゅうカッとなっていた。珍しく怒りを直接相手に伝えそうになったのだが、怒り慣れてないせいかタイミングがつかめず、隣の席の人に愚痴ることしかできなかった。隣の人ごめん。ごめんけど、疲れた。
このツイートを見て、あー。となった。
これは病んだ人向けのライフハックなんですが思い詰めたら数千円握り締めて"そこら辺の占い"に行くのです。愚痴でも悩みでも思いの丈を全て見知らぬオバサンにぶち撒けましょう。たった数千円で誰にも言えないヤバイ話を全く引かずに聞いてくれた挙句全ての不運を星のせいにしてくれます。
— 天使 (@tenshicos) 2020年5月27日
わたくしも3年くらい前までこの調子だったのだ。
前の会社への転職は占い(易)で決めたし、20代中盤は当たるという占いを聞いては結構行っていた。占いに行くたびに初対面の人相手にわんわん泣いていたことを思うと、カウンセリングに行く手前のカウンセリングとして、いま不安に感じていることを誰かしらない人にぶちまけられる良い機会だったのだと思う。
メンタルクリニックが混み合う昨今、占い師に話すだけでも大いに良いのではないか。冷静に比較すると安いし、病名もつけられず、薬も飲まなくてよく、通うことも求められない。他人に自分の窮状を伝えるだけでいいのだ。それを否定されないで、「そうですか、つらいですね」と言ってもらえるだけで、いい。街の占い師はそういう役割も多分担っている、かもしれない、実は昔から。
わたしが直近で行った占いは、去年行った台北でのことだ。文鳥占いが面白そうすぎて行ったのだが、セットで現れた人間の占い師の先生も耳毛が満タン(しかも総白髪)ですてきだった。人間の先生には『傲』という字をメモに書いてもらった。要は私が傲慢であるよということの示唆だ。薄々気付いていたので笑いながらもしびれた。文鳥の先生たち(2羽で占ってくれる)も「お前調子のんなよ」と言ってくれた。
いまこの瞬間、占いに行きたいかというとそうでもない。現実を現実のまま、解決するための自分の努力しかないように思える。要は、迷いがあまりない。それも、みずみずしさを失った一環のようにも思える。
そう感じながらまた一人で飲みに行ってしまった。完全に、緊急事態宣言は開けた、個人的に。第二波が来るとわかっていても、飲まずにはいられないのだった。