価値のこと


ごまさんが名古屋と多治見に遊びにいらっしゃるというので、連休にして一緒に2日間遊んだ。

旅程は、コンパル本店でランチして、東山動植物園でコアラとレッサーパンダを見て、On Readingに行って展示と本を楽しんで、コアラドでワインを飲んで、最後にもう一軒で初日終わり。
2日目は金山のブラジルコーヒーでモーニングして、TOUTEN BOOKSTOREでまた本買ってから、多治見にお出かけ。メインの目的地は新町ビルでの陶器の展示。信濃屋、梅園、ヒラクビル、CAFE NEU!も行って大満足だった。
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で、その間わたしの頭の中にずっと巡っていたのは、価値のことであった。
もしくは金のこと。
東山動植物園の入場料は500円である。
On Readingで買ったリトルプレスは1000円である。
信濃屋のうどんは660円。
買うか買うまいか迷った陶器のマグカップは2800円。
何にどんな値段を払うのかは、とても個人的なことだと思う*1。一方で、何にどんな値段をつけるかは、とても社会的なことではないか。「これくらいでどうでしょうか」と出す裏側に、いろいろな事情が、いろいろな人の取り分が積み重なっている。

わたしは普段マクドナルドを食べてトップバリュを買い、無印良品に囲まれユニクロを着て生きている。仕事でも、なるべく多くの人にお金を払ってもらうことを目指して、個人というよりも市場の中で最適化されたものを仕入れるのが常だ。
大量生産大量消費でいいのかなと思うのだが、それ以外のやり方がいつのまにかわからなくなってしまった。一人暮らしですぐに食うに困るわけでもないけど、何かあったらすぐに食うに困るんじゃないかと怯えているからなのかもしれない。

この2日間は、作る人から販売するモノまでの距離が近いところに行った。するとこの普段の生活とのギャップがこたえる。
作家さんが窯から出してきたばかりの花瓶を眺めながら起こる、わたしがこれを買う理由はなんだろうという思い。すてきだな、いいな、という気持ちの根拠がわからなくて苦しい。*2
それと同時に発生する、じゃぁ自分の勤め先が売っているものは納得できる価値があるのかという不安。
消費にも提供にもなんだか自信がないな…と思いながら、衝動買いしたセーターは25000円した。内心わーあ、となりながらスッと支払った。

 

 

 

*1:意思表示、投票という意味では社会的な行為だとも思うんだけど、それを決意するのは結局個人でしょう。

*2:ほんとうはこのブログで、この「すてきだな」の根拠がわからないことについて書きたかったのだけど、できませんでした。

その後の食事と米のこと


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既に甘く懐かしい思い出になっている、入院生活。
何人もの優しい大人たちが私の体調を気にしてくれて、ご飯も作って持ってきてくれて、お掃除もしてくれて…*1
そんな中の食生活は、「こんなにいいの?」と聞きたくなるほどたっぷりの白いご飯と、優しく煮たり和えたりのお野菜と、適量のたんぱく質、主にお魚で構成されていた。

退院してすぐ、どうしてもホットケーキが食べたくて近所に駆け込んで食べた。
そのあともやけに甘いものが食べたくて、お菓子を買っては食べている。お酒を飲まなくしているので、ストレスの発散先が甘いものになってしまっているのかもしれない。
毎日ひと切れずつ食べようと思って安くて巨大なカステラを買ったけど、ひと切れに留められたのは初めの3日くらいで、あとはふた切れ、三切れを連続食いして「俺はなんという罪を犯してしまったんだ…」と悔やみながら寝た。牛乳が合って合って困る。しかし巨大なカステラはだんだん目が詰まってきて美味しくなくなるので一人暮らしで買ってはいけないということがわかった。個包装、大切。

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病院のような一汁三菜が理想とはわかっているが、まさか自分にそんな手間をかけられない(かけてたらもっと健康だ)*2
3COINSでレンジ用蒸し器を買って、葉っぱとキノコと魚を蒸したのを作って食べている。レシピは白央さんのやつ*3 を参考に。蒸し器が思ったより大きかったので、夜と昼の弁当の2食分になって助かる。
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それと、炊き込みご飯を毎日食べる。
入院食のごはんの量の多さに本当に感心したので、1日一度はごはんを食べないとな…という義務感でご飯を炊いている。
そしておかずを一品増やす代わりに、ご飯に具を混ぜることでなんとかならないかという願いを込めている。大概、鮭とか、サバ缶とか、鶏ミンチとかをたんぱく質として入れて、あとはしめじなど。冷凍えだ豆と塩昆布というのも教えてもらってやってみたら美味しかった。
問題はそれでしかご飯を炊いていないので白米が食べたい気持ちのとき悲しいこと。いざとなったらサトウのごはんを買って食べてしまう。平素、混ぜご飯に馴染んでいると、白いご飯っておそろしく美味しい。
白米、すごいぞ…という気持ちが高まり、会社のチームメンバーにお歳暮で米を贈ってしまった。重たい。

 

 

*1:ばーんとご請求もいただいたけど当然の価格であった

*2:入院までしたらさすがに自分に手間をかけるようになるだろうと思ったが人間のレベルは変わらないものなのだ

*3:

カーテンのこと


いまの部屋に引越してきてから、もう2年も経っている。
その間ずっとカーテンがなかった。
正確に言うと、ベランダに向かった窓が1つだけだった前の部屋で使っていたカーテンを、窓が3つになった今の部屋でそのまま使っている。
レースのカーテン2枚を大きい窓に。普通のカーテン2枚を残りの小さい窓に。
それで目隠しは済んでいたが、小さい窓にかけているカーテンは大きすぎるし、大きい窓にかけているレースのカーテンはどう頑張ってもレースでしかなく、なんとなく不完全な感じはしていた。でも、不便でもなかった。


入院してあてがわれた部屋は大変きれいで、大きな窓から日光がさんさんと入ってくる、療養生活に適した爽やかな個室だった。
そこでものすごく久しぶりに、毎日カーテンを開けたり閉めたりする生活をして気付いたのだ。
カーテン、めちゃ大事じゃない…?
朝はカーテンを開けたら部屋が明るくなって、はい、起きましょうね〜という感じになるし、夕方になったら閉めると部屋が暖かくなる。これはすごいぞ。
日に日に、これが私の部屋にも必要である確信を深めていった。

そもそも、部屋に一日中いる日はすごく少ない。いや、正しくは、休みの日は大抵一日中部屋にいるのだが、その場合は一日中寝ているので、カーテンの開け閉めなどしない。だから要らない、という考え方もある。
一方で、引越し以来の悩みは寒さである。部屋の日当たりが悪くて、そもそも北向きで、秋冬はシンと寒いのだ。窓から来る冷気たるやなかなかのパワーがあるので、なんとかしなくてはいけないと思っていた。思っていたのに2回も冬を越してしまった。

来る冬。不安な体調。
いまカーテンを導入せずしていつするんだ!と、退院した当日にカーテンを買いに行った。
いろんな人に無理するな無理するなと言われたけど、入院中あまりに動いてなさすぎて、家で座っていられなかった。それまで1日に100歩も歩いてなかったのに、帰ってきたら15000歩も歩いたことになっていた。極端。
遮熱効果のあるものをビシッと選び、取付けて大満足。これできっと寒くない。

 

翌朝から起きてカーテンを開けると、すこし部屋が明るくなって、ああ、朝…という感じがする。これよ、これこれー。って、世の中多くの人が既にわかっていることを今更やっている。


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エンパシーのこと


ずっと課題図書として通勤カバンに入れて、毎日2ページずつくらいしか進んでいなかった本『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読むことができた。入院パワー。

 

 

エンパシーは、日本語では共感と訳されることが多いけど、それだけでは賄えないもの。
エンパシーには種類があって、中でもコグニティブ・エンパシーと呼ばれる「誰かの立場に立って、その思いや考えを想像する能力」がいま求められてるのではないか、そして、それは意外と独立独歩の考え方であるアナーキズムに繋がってるのではないか…という話でした。
「わかる〜」って自然に湧き上がる同情(シンパシー)や「大変ね」と声を掛けるような親切行動ではなくて、相手の立場に立って考えるコグニティブ・エンパシーは鍛える必要がある/鍛えられる"能力"であるというところが肝のようだ。

作家が『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のブレイディみかこ氏なので、同じようなエッセイをイメージして買って読んだのだが、読み口はもっとしっかりした"思想の本"だった。(それゆえ読み慣れず時間がかかってしまった。)

印象に残ったのは、サッチャーにはエンパシーが皆無だった、だからエグい政策をバンバン打てたって話と、エンパシーを発揮するのは精神的負荷だからやりたがらない人が多いって話。
エンパシーは私の中で「ちゃんと愛を出す」みたいなこととすごく近いなって読んでいて思ったのだけど、それってすごく体力が要る。その体力がないんだよ〜〜〜とクヨクヨしていたら、ちょっとした実験でさえもエンパシーを使うときはしんどくてやりづらいという人がいるという記載があって少しホッとした。でも、だからこそ、考え方も体力も気持ちも"能力"として鍛える必要があるんだろうな。がんばらねば……


そのあと、お見舞に来てくれた家族から読みたかった『心はどこへ消えた?』を借りて読んだ。以前読んだ『いるのはつらいよ』の著者の新しい本。


こちらは味付けが読みやすく、半日でガーッと一気読みしてしまった。
この本は序文で「今、必要なのはエピソードだ。小さすぎる物語だ。」と言っていて、それはエンパシーのトレーニングのための1つのツールになると私は思う。
この人は臨床心理士でカウンセラーだから、お仕事で会ったいろいろな困難を持った人たちとのエピソード*1を本の中で見せてくれる。いろいろな思いが、話している間に流れ出てきて、もう話し切ったかな…と思った最後の底にあるものが大きな本当の課題だったりする。カウンセラーはまさに"他社の靴を履く"仕事だろう、本の中の一説はそれを下記のように表現していた。

そのとき、私たちはイライラマンを外から観察しているのではない。イライラマンの世界を内側から一緒に見ている。彼の生きてきた「わかってくれない」物語を共に体験しているのだ。

これこそ、エンパシー。
わたしはカウンセラーではないから、たとえば何時間も心を込めてチームメンバーの話を聞き、内側から一緒に見つめ続けることは正直できないと思う。でもやっぱり1 on 1の時間を確保しなくても、「最近どう」的な会話で話を聞かないといけないなとしみじみ感じた。

いま私の業務時間はほんとうに途切れ途切れになっていて、あらゆることをヒラッと撫でてはあっちへ動かしたりこっちへ動かしたりしているだけなのだ。
ことの本質に全然触れないまま時間が過ぎていく。本当の課題に辿り着かないままなのだ。
それでもなんのかんので給料は出るサラリーマンだからいいっちゃいいのだが、それでいいのかなといつも思っている。
そういう話を会社に戻ったらみんなとしなくちゃなと思いつつ、心身の体力を保つべく踏み台昇降に勤しむ日々だった。*2

 

 

 

*1:もちろんホントのエピソードは個人情報だから、フィクション化したもの

*2:ずっと点滴しっぱなしなのでろくに運動ができなくて、とりあえず階段で踏み台昇降するのが最適解だと思ってちょっとやってた。

誰の体のこと

入院日記の続きです。

 


いろいろあって、手術するか、しないか、という話になったとき、先生がしきりに「ご家族にご説明を…」と言うので、「なんで私に説明する前にご家族の話になるの?」と思った。
言わなかったけど。
まぁ、わかる。手術中にもしものことがあって、例えば死んだら「何したんですか!?」って家族はなるだろう。例えば重たい後遺症みたいなものが残ったら、私のことを世話するのはきっと家族だろう。そういった理由で、家族に説明しなきゃいけないということだろう。
でもさあ、私の身体のことだし。
私が89歳で認知症だったら、私より家族に説明するわね。でも36歳で一応普通に働いてるくらいの人なんですよ。もちろん、客観的な(患者でもない、医師でもない人の)意見もあったほうがより冷静に判断できるってもんだろう。けどさ、けどさ〜。
どうもイラッと来てしまったので「最終的に決めるのは私なので」とは言ってしまった。
違うのかな。
私がほんとに家族みんなと縁切ってて、誰も出て来なかったらどうするんだろう、そしたらやっと私に説明するのかな。


「ものすごくたくさん食べたい」という気持ちはあるのだが、そもそも年齢的に難しくなっていることもあり、日々粗食のほうが理に適っていることはわかっていた。
でも、病院で出てくるような、少し柔らかめのご飯とか、よく煮たお野菜とか、お魚焼いたのとかを淡々と自分のために用意することは結局私にはできないと思うのだ。イライラしたら唐揚げが食べたいし、やる気のためにカツ丼も食べたい。
カツ丼を食べてお腹が痛くなって悶絶するのは嫌だな…と思って、手術を希望した。

そうしたら、なんということでしょう。手術希望を伝えた次の日からお腹がまったく痛くなくなってしまったのです。
まるで家電の調子が悪くて「新しいの買わなきゃね…」と言ったら動き出す、アレのように。
これで手術は一旦お預けになり、食事をしながらお腹が痛くならないように様子を見る日々が続く。

心底優しい母と姉が、"手術を前提としたご家族への説明"を聞きにわざわざ名古屋まで来てくれて、お土産としてタブレットに大量のマンガと、Netflixのマイリストに入ってる映像をダウンロードして持ってきてくれたため、それを観るなどさせてもらって過ごす日々。
社会復帰できなくなるんじゃないかと思う。

そしてついに「とりあえず明日退院」になりました。
1週間のつもりが2.5週間も入院してしまい、あまりの長さに焦っていたのでホッとした。とりあえず仕事は会社のみんながちゃんとやってくれてるし、保険にも入ってたから多少は入院費用もカバーできるし、過去の自分を含めた各地に感謝しながらなんとかやっていかないと。もしかしたらいつか手術するかもしれないけど、とりあえず退院して生きてみる。
そしてこんなにも時間があったのに、結局仕事も生活も何も改善方針が立たないまま過ごしてしまい、「さすが自分…」と呆れているところ。ああ、どうしよう。

 


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ハロウィンのお昼の食事にカードがついていて、ちょっと泣きそうに嬉しかった。

アルファベット飯のこと

入院日記の続きです。


ABCポテト*1ってまだあるんですかね。

リポビタンDとか、CCレモンとか、ポテトSとか、アルファベットのついた食べ物は世の中にいろいろありますね。

わたくし入院してからソリューゲンFとか、ソルデム3Aとか、静脈から摂取させていただいています。点滴ですね。これは薬なのでアルファベットがつくのはわりかし普通ですよね。なんかちょっとカッコいいな!と思いながら摂取しております。これだけで動けるなんて、未来人とか人造人間とかみたいだな〜と思ってます。

ただ、昨日も書きましたけど、点滴だけですとさすがにお腹空いてきまして、ちょっとイライラし始めておりました。

そんな折、ついに本日から、食事を摂取してよいことになり、看護師さん相手に「わーいわーい」と小躍りを見せてしまった36歳。
なお、ほぼ毎日自分の名前と生年月日を訊かれる*2ので、気持ちはかなり幼稚園児のようになっています。

で、待ちに待った食事のお盆が到着。
わーいわーいとフタを開けていく途中で、脇にメニュー表がついていることに気が付きました。

見ると、タイトルは
『常菜ハーフ食1000』
これはきっと通常の主菜副菜で、半分の量だから常菜ハーフ食。1000はたぶん、1日に摂取するカロリーが総計で1000kcalになるように、という意味ではないかと推測しました。
内容は
『米飯80g』
『親子煮P』
『けんちん汁B』
『茄子ゴマだれC』
えっ…gはグラムなのはわかるけど…
なんのP?なんのB?なんのC?
もしかして、量をSMLじゃなくてABCで刻んでるのかな。それでBCは中と小ってことかな。するとPはなんなんだろう。主菜には別なルールがあるのかしら…
ふむ…
もぐもぐ…
あっ、もしかしてPはプロテイン?食べ物が鶏肉と卵だから…。そしたらBとCはビタミン?でも茄子はビタミンとかないよね?
えー、なんなんだろう…
もぐもぐ…
……(意識して30回噛んでいる)
ってメニューのアルファベットが気になりまくってるうちにすぐ食べ終えてしまいました。
美味しかったです。

 

 

これきっと看護師の人とか栄養士の人とかが見たらアルファベットの意味してることがわかるのかもしれないのですが、もし読んでくださった方で答えを知ってたとしても教えてくれるの待ってください、しばらくこれで楽しみたいので…


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*1:私が幼稚園くらいのころにお弁当に入れてもらってた、ハッシュドポテトがABCの形になっているもののこと。みんなアンパンマンになっちゃってるかな…

*2:薬や採血が本人のものと間違ってないかの確認をするための作業