最近の読書のこと(7月)

 

40歳までにコレをやめる

40歳までにコレをやめる

 

読みました。すがすがしくてぐいぐい読んでしまった。いろいろやめていきたいよ、と思いつつ、まず私は東京に住むのをやめたな、と気付く。ニューヨークまで行ける日はいつ来るのだろう。行くには足りないものばかりだけど、足りないものを数えるのをやめるのも、どこかに行くには大事かもしれないね、とか言っておく。どこかに行きたい気持ちがいつもあって、でも地元という意味でも都市という意味でも東京は魅力的で、アンビバレントな気持ち。

 


いま、この二冊を並行して読んでいる。

家をせおって歩いた

家をせおって歩いた

 

どっちもめちゃくちゃしびれる。


『家をせおって歩いた』のほうは、美術家の男性が文字通り家を背負って徒歩で日本国内を移動し続けている日記。歩いてる最中に書いていたブログをまとめたものらしい。SPBS(ああ、これも東京)で展示をやってたのを、ほんとうに見に行けばよかった、と後悔しながら読んでいる。一緒に販売していた絵本のほうも、どんな内容なんだろう、買えばよかった。買おう。

こちらの日記のほうを読んでいると、本人の切実で真っ直ぐな感情が槍のように出てきて溜息が出てしまう。なんの溜息なのかというと、たぶん、すっかり「普通に生きる」「会社員としての生活」みたいなものに馴染みきってしまい、そうでない美術家らしい生き方考え方が羨ましくなるからだと思う。羨ましい理由は「そういう特別な存在になりたかったなあ」みたいなことで、でも、そんなことを言ったらこの人には「特別じゃないです」と返事をされてしまうだろう。そういうことではないよ、もっと切実なことなんだよ、と日記に書かれてしまう。そんな切実なことが胸の中にあることが羨ましいのです、こちらは。

引用。


これまで「若いからできていいわね」とか言われてなんか違和感があったのは、あの人たちに日常化のバイアスがかかっているからだ。彼らの中にはなにか 確固たる「日常とはこういうものだ」という無意識の思い込みがある。 「いま目の前でこんな事をやってる人がいるのはある種の非日常的な『勢いにのって』やっているからだ。彼もいずれ若くなくなり、『私たちと同じようなにこの日常』に取り込まれていく。 だから私がこの日常にいることは間違ってない」と 自分を納得させるために、そういうことを口走る。

(家をせおって歩いた 51ページ)


これを読んでがっっっくり来てしまった。こういう日常の感覚を持ちたくないけど、大いに持っている自分がいることを思い知る。


以前ある人に「○○さん(共通の知人)も楽しそうだけどそろそろ結婚して幸せになってほしいよね」と言われたとき「いや、結婚にまとめなくてもいいだろが!なにその旧式な考え方!」と心が暴発しそうになったのを覚えているのだけど、そういう側面ではない、たとえば、「仕事をするしない」「定住するしない」といった、自分では「する」ことが当たり前みたいに思っていること以上の選択肢が出てくると、困惑して、自分の当たり前を守りたくなってしまう。

本当はもっとフラットにいたいのに、こだわってしまってることがめちゃくちゃたくさんある。恥ずかしい。そういう気持ちになりまくる本だ。まだ半分くらいしか読んでないけど。

 

ジェーン・スーさんの対談本も、地方と東京、ジェンダー(特に男性の生きづらさ)、いまの当たり前についてのアップデートなど気になるトピックが多すぎてハラハラしながら読んでいる。

https://www.instagram.com/p/BzQD5vtltJz/

この帯の内側の文言、読み始めてしばらく気が付かなかったけど、気付いた瞬間びっくりした。よく抜き出したなあ。きっとこういうのは編集者の人が決めているんだろうから、だとしたら編集者の人あっぱれだ。拍手〜。